幸い本日は天気も良く、久しぶりに史跡を巡ることにした。参考にした資料は紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」である。念のため、取材の過程で土地の古老に会ってもいいように新調したばかりの「横町利郎」の名刺を持参した。


私が敬愛して止まない宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏のことを改めて紹介し、彼の遺した功績を振り返ってみたい。 紫桃氏の遺作は40にも及ぶが、特に葛西氏を研究した実績が高く評価されている。しかも彼は教師と郷土史家(作家)という二束の草鞋を履きながらの執筆であった。彼の実績を真に評価するならば「好きこそものの上手なれ」という言葉ではあまりにも軽すぎる。その苦労と尽力は尋常でないものがあったと察せられるのである。 紫桃正隆氏(1921~2008) ![]() 宮城県石巻市((旧桃生郡河北町)生まれ 作家 史家。 受 賞 宮城県教育文化功労賞(平成6年度) 以下wikipedia「仙台領内古城・館」より引用 『仙台領内古城・館』(せんだいりょうないこじょう・やかた)は、仙台藩領内の城館に関し、紫桃正隆が1972年から1974年にかけて著した研究書である。古代から近世まで知られる限りの城・館1350を実地調査に基づいて紹介し、考察を加えた。全4巻。 第1巻 岩手県南部、1972年 第2巻 宮城県東北部、1973年 第3巻 宮城県西部及び中央部、1973年 第4巻 宮城県南部、1974年 宮城県石巻市在住の高等学校の教員だった紫桃は、郷土史家として主に葛西氏の歴史についての著作で知られていた。彼が10年近くの歳月をかけ、休暇中に実施した現地調査の成果をまとめたのが本書である。多くは現地の郷土史家の案内・同行を仰いだという。 『仙台領内古城・館』は、全4巻を地域別に分け、地域内の城・館について一つあたり数ページずつ割いて解説する。ほとんどの城館に手書きの略地図を掲げ、必要な場合には地形図内での位置も示し、白黒の写真を多く収録した。現地調査にもとづいて規模・構造を推定し、古文献の記述にもとづく考察や、調査時に現地で知った伝承もあわせ記す。 仙台藩領、つまり宮城県と岩手県南部には、古代の多賀城、近世の仙台城を代表に著名な城が多いが、数的に多いのは中世に作られた比較的小さな城・館である。しかし、史料・研究・調査の密度からいうと、古代の城柵、近世の城・要害の充実と比べ、中世城館はまったく手薄であった。それゆえ、本書の不朽の業績は、急速な開発が進む1970年前後に成し遂げられた中世城館の悉皆調査にある。 江戸時代の仙台藩は、領内の村役人にその村の廃城について知ることを提出させ、それをまとめて『仙台領古城書上』を編纂した。旧仙台領の中世城館に関する必須文献だか、記述が簡略である。『仙台領内古城・館』は、範囲・数・内容のすべてにおいて古城書上を凌駕し、21世紀初めまで匹敵するものがない大著である。市町村の自治体史を集めて束にすればその収録範囲は本書に匹敵するはずだが、こと中世城館については本書を越えない所が多い。 |
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私は史跡を巡るのにバイクを使うことが多い。バイクは何と言っても小回りが利いて狭い道でも入ってゆける。これと本日はヘルメットのタイプを敢てジェット式(フルフェイス式と違った顔面を露出するタイプ)とした。理由は少しでも付近の住民とコミュニケーション(私は史跡探訪の際、古老などからの聞き込みを重視している)を取る為である。顔面を覆うフルフェイス式では、時に怪しまれることもあるからだ。史跡探訪はそこまで気を回すことが大切である。
本日最初に訪れたのは広瀬川左岸(北側)の青葉区郷六地区の「葛岡城」(くずおかじょう)である。「仙台領内古城・館 第三巻」を良く読んで下調べをしていった為、葛岡城の標柱のある場所を見つけるのにさほど時間は掛からなかった。紫桃氏の解説によると、右側の民家は館のあった一部としている。現在は全てが私有地という感じである。紫桃氏によると民家の一帯の東西、南北80メートルほどの場所が城郭内にあたるという。
本日最初に訪れたのは広瀬川左岸(北側)の青葉区郷六地区の「葛岡城」(くずおかじょう)である。「仙台領内古城・館 第三巻」を良く読んで下調べをしていった為、葛岡城の標柱のある場所を見つけるのにさほど時間は掛からなかった。紫桃氏の解説によると、右側の民家は館のあった一部としている。現在は全てが私有地という感じである。紫桃氏によると民家の一帯の東西、南北80メートルほどの場所が城郭内にあたるという。

Google3D立体画像で本日巡った史跡三箇所の位置関係を確認して頂きたい。葛岡城と郷六城は中世豪族の国文氏(その後伊達氏に帰属)が、その家臣を住まわせた要害とされる。
葛岡城跡と書かれた標柱は民家の南側の土塁跡に立てられている。これは紫桃氏が描いた葛岡城の見取り図である。紫桃氏がこの地を訪れたのは昭和40年代と思われるが、改めて彼の尽力に頭が下がる思いがする。あれから半世紀近くが経った。そう考えると感慨深いものが胸に込み上げてくる。

土塁の脇には堀切があるが、比較的いい状態で保存されている。笹薮の合間に僅かに見える川は広瀬川である。
紫桃氏の資料を基に、3D立体画像に葛岡城の大まかな全容を落としてみた、紫桃氏によると南側(手前)にもう一筋の土塁と水濠(堀切)が存在したはずであるという。
広瀬川の断崖には往古のものと見られる降り口が見られるという。平城にしては結構防御力が高かったのかも知れない。
紫桃氏によると、「古書書上」に城主は馬場筑前入道清説(一書に清設)であり、国分能登守盛氏の家臣であったとされる。(標柱のある場所から旧国道48号線側を望む)
横町挨拶
この後で対岸にある郷六御殿跡と郷六城にも行きました。今回はボリュームの関係で見送り、次回以降の更新で紹介したいと考えています。この葛岡城は位置的に葛岡霊園(複数の寺の墓地が共同で存在)の南に当たるところで、旧国道48号線から西に120メートルほど入った地点にあります。
歴史的なことについてはかろうじて城主の名前がわかる程度で、詳しい内容は明らかにされていません。でも多くの城郭や館の跡はこのようなものが多く、謎に包まれたものが多いと言えます。
自分はかえってここに限りないロマンを感じます。城主の馬場筑前入道清説については何かの折に調べてみたい所存です。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。















城址もすっかり変わって、民家や畑になっているのですね。
どういう状況でこうなったかはわかりませんが、
出来れば、小さくても城址公園として残して欲しかったですね。
1本の標柱だけのと言うのは、寂しいものがありますね。。。。