本日は去る4月14日に訪ねた仙台市青葉区の郷六御殿の記事をお伝えしたい。郷六御殿は仙台藩四代藩主伊達綱村が貞亭4年(1687年)に造営し楽寿園とも、或いは梅郷とも呼ばれた。郷六の地が地の利を得た佳境であることに着目、藩士である上野市郎兵衛らに命じて景勝の平地を拓き別荘としたとされる。
様々な資料を漁ると、この畑地の辺りが郷六御殿の北端に位置しているようだ。畑地では土地の古老と思われるかたが農作業をしていたので、いろいろと話を聞いた。古老によると南側の住宅地に古井戸があるという。但し、紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」の577ページに掲載されていた「郷六御殿址」の標柱は遂に発見できなかった。紫桃氏の取材は今から50年近くも前のことなので、標柱は新たに立て替えられたのかも知れない。





様々な資料を漁ると、この畑地の辺りが郷六御殿の北端に位置しているようだ。畑地では土地の古老と思われるかたが農作業をしていたので、いろいろと話を聞いた。古老によると南側の住宅地に古井戸があるという。但し、紫桃正隆氏著「仙台領内古城・館 第三巻」の577ページに掲載されていた「郷六御殿址」の標柱は遂に発見できなかった。紫桃氏の取材は今から50年近くも前のことなので、標柱は新たに立て替えられたのかも知れない。

Google航空写真で郷六御殿の敷地図(横町利郎が推定)をご覧願いたい。「仙台領内古城・館 第三巻」によると「河岸段丘の上東西150メートル、南北300メートルに及ぶ広大な畑地が屋敷のあとと伝わる」と書いているので、敷地の線引きはこれを根拠としてみた。

古井戸があると思われるところに差し掛かった。数軒の民家が建っているが、ここでも聞き込みを行った。話を聞いたかたは、年恰好はさほど自分と変わらない上品な紳士であったが、ご自身の屋敷を含めたこの辺りの住所は「屋敷」であり、史跡の郷六御殿であるという。この紳士にはその後、丁寧に界隈を案内して頂いた。紳士にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

東側(川側)から井戸を望んでみた。郷六御殿は藩主並びに一族の休息の場であるとともに、隠居所でもあったとされるが、現状は住宅地や畑地ゆえ、どうしてもイメージが浮かばなかった。

楽寿園御殿の一部は近くの臨済宗大梅寺の庭に移転され、今でも現存している。この画像は一昨年の2017年の6月に私が撮影したものである。大梅寺のほうは山が迫っていて、建っている環境が全く違うが、侘び錆びの感じられる「風流な閑居」という趣がある。

横町挨拶
遺構が少ないのが大変残念ですが、葛岡城と郷六城の中間に位置するこの場所は、中世の頃は国分氏が要衝として重視した場所でもあり、古来から渡し舟の往来があった場所と考えるのが自然と捉えています。徳川時代に入り、仙台藩主伊達綱村はここに目をつけたわけですが、往時は広瀬川のせせらぎも聞こえ、風雅なスポットであったと捉えています。仙台城からは御裏林(現東北大学付属植物園内の旧東街道)~御道(最上古街道)を通ってこれる場所ゆえ、佳境と言えるのかも知れません。伊達のお姫様も侍女を伴い野遊びに来ていたのかも知れません。そう考えると長閑で、且つ優雅な情景も脳裏に飛来して参ります。(笑)本日も最後までご覧頂きありがとうございました。
遺構が少ないのが大変残念ですが、葛岡城と郷六城の中間に位置するこの場所は、中世の頃は国分氏が要衝として重視した場所でもあり、古来から渡し舟の往来があった場所と考えるのが自然と捉えています。徳川時代に入り、仙台藩主伊達綱村はここに目をつけたわけですが、往時は広瀬川のせせらぎも聞こえ、風雅なスポットであったと捉えています。仙台城からは御裏林(現東北大学付属植物園内の旧東街道)~御道(最上古街道)を通ってこれる場所ゆえ、佳境と言えるのかも知れません。伊達のお姫様も侍女を伴い野遊びに来ていたのかも知れません。そう考えると長閑で、且つ優雅な情景も脳裏に飛来して参ります。(笑)本日も最後までご覧頂きありがとうございました。











何処も当時の面影はなく残念ですね。
人間の作ったものは何時か壊れる。
これは仕方ないことですが、淋しいですね。
それでも、標柱が有るだけは良しと言うことでしょうね。
歴史探訪、お疲れ様でした。