去る4月14日(日)に訪れた郷六城を紹介したい。東側より郷六城跡を望む。郷土史家の紫桃正隆氏の訪れた50年前と異なり、今は住宅地と化している。
Google航空写真で郷六城跡をご覧願いたい。すぐ傍に東北自動車道仙台宮城ICが造られたことがこの史跡のその後に大きな影響を与えたのは間違いない。
つい最近、すぐ傍(以前は畑地)には立派な老人ホームが建設されたばかりである。これも時流というべきであろう。
主郭への入口には複数の祠が立っているが、最も古い古碑は建武年代(1334年頃)とされる。南北朝時代にここに豪族が関わった証である。紫桃氏によると「古城書上」に城主は郷六大膳盛元入道同興という名が出てくると言う。その孫である森田孫右衛門がこの地に居住したとされる。また「宮城郡史」には、国分前司能登家臣・郷六大膳の居館なり。今の森田氏の遠祖なり。世々郷六に居る、因って氏とす。郷六孫九郎元直の代、天正年中国文氏滅び、伊達政宗に仕う。文禄4年(1595年)戦功により氏名を改め、森田杏右衛門と称す…とある。改名した理由は過去に伊達に抗った国分では支障があったということなのだろう。
主郭があったとされる場所は畑地となっていた。敵対と服従は地方豪族に見られるごく普遍的傾向だが、国分氏もその例外でないようだ。長いものには巻かれろという言葉があるが、国分氏もその言葉の真意を悟り、新興勢力である伊達氏とどう付き合うかを日々考えたのだろう。
今は道路となっている部分は城郭の北側にあたり、過去に濠があった場所とされる。
横町挨拶
山岡宗八原作「独眼流政宗」には伊達政宗の叔父である国分盛重が登場しますが、伊達を出奔し慶長元年の1596年に秋田の佐竹氏を頼って家臣となる様が描かれ、盛重は政宗の伯父(叔父)の中では最も頼りにならない存在(それどころか敵対した大名に寝返った)と位置された人物でした。
それでも彼はどんな手段を用いても生き延びたかった。この城跡を見ると名字を変えてでも生き延びたいという国分氏の執念を感じます。自分は歴史とはけして綺麗ごとでなく、そんなものだと思っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。
仙台領内古城・館 第三巻P579より引用した写真をご覧頂きたい。正面の林の左側が主郭のあったとされる場所である。(紫桃正隆氏本人が撮影した写真と思われる)今はすっかり住宅地となった周囲だが、紫桃氏が訪れた当時は畑地に囲まれた場所だった。尚、仙台市に編入される前の住所は宮城群宮城町であった。
紫桃氏が描いたスケッチで郷六城跡の概要をご覧願いたい。紫桃氏は東西80メートル、南北100メートルとしているが、資料によって異なるようである。数字は飽くまで参考としてお考え願いたい。
つい最近、すぐ傍(以前は畑地)には立派な老人ホームが建設されたばかりである。これも時流というべきであろう。
主郭への入口には複数の祠が立っているが、最も古い古碑は建武年代(1334年頃)とされる。南北朝時代にここに豪族が関わった証である。紫桃氏によると「古城書上」に城主は郷六大膳盛元入道同興という名が出てくると言う。その孫である森田孫右衛門がこの地に居住したとされる。また「宮城郡史」には、国分前司能登家臣・郷六大膳の居館なり。今の森田氏の遠祖なり。世々郷六に居る、因って氏とす。郷六孫九郎元直の代、天正年中国文氏滅び、伊達政宗に仕う。文禄4年(1595年)戦功により氏名を改め、森田杏右衛門と称す…とある。改名した理由は過去に伊達に抗った国分では支障があったということなのだろう。
主郭があったとされる場所は畑地となっていた。敵対と服従は地方豪族に見られるごく普遍的傾向だが、国分氏もその例外でないようだ。長いものには巻かれろという言葉があるが、国分氏もその言葉の真意を悟り、新興勢力である伊達氏とどう付き合うかを日々考えたのだろう。
今は道路となっている部分は城郭の北側にあたり、過去に濠があった場所とされる。
横町挨拶
山岡宗八原作「独眼流政宗」には伊達政宗の叔父である国分盛重が登場しますが、伊達を出奔し慶長元年の1596年に秋田の佐竹氏を頼って家臣となる様が描かれ、盛重は政宗の伯父(叔父)の中では最も頼りにならない存在(それどころか敵対した大名に寝返った)と位置された人物でした。
それでも彼はどんな手段を用いても生き延びたかった。この城跡を見ると名字を変えてでも生き延びたいという国分氏の執念を感じます。自分は歴史とはけして綺麗ごとでなく、そんなものだと思っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。















現地の様子を拝見出来、勉強になります。